・なぜベイスターズを退団したのか?
・「心の伸びしろ」とは?
・琢朗さんが大事にしている言葉
この記事ではベイスターズの1番ショートとして活躍し、現在ジャイアンツでコーチを務めている石井琢朗さんの心の伸びしろ/石井琢朗を紹介します。
この本は琢朗さんがカープのコーチ時代の2013年に出版された本です。プロ野球での経験を振り返りながら、元気付けられる言葉を29個紹介しています。その中で気になった言葉やエピソードを3つ取りあげるので、ぜひ最後までご覧ください。
石井琢朗とは
現役
栃木県立足利工業高校から、1988年にドラフト外で横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)に投手として入団します。ショートのイメージしかない琢朗さんですが、入団当初は投手だったのです。
高卒1年目から1軍で初先発初勝利をあげます。しかし、巨人の篠塚さんに憧れるなど野手への思いが強く、1992年から内野手に転向します。また、野手転向の際に登録名を本名の石井忠徳から石井琢朗に変更しています。
転向した初年度からサードとして出場を増やします。翌年の1993年には2番サードに定着し、規定打席に到達します。また、24個の盗塁を決め盗塁王を獲得しました。守備にも定評があり、ゴールデングラブも獲得しています。転向して2年目でこの数字を残せるのは本当にすごいと思います。同じく投手から野手に転向した糸井選手(阪神)や雄平選手(ヤクルト)でもすぐに1軍に定着することはなかったので、琢朗さんの凄さがわかります。
1996年には琢朗さんの代名詞とも言える1番ショートに定着し、45個もの盗塁を決めます。1997年には3割を打ち、ショートとして初めてベストナインを獲得します。
1998年には、かの有名なマシンガン打線の切り込み隊長として、チーム38年ぶりの優勝に貢献します。また、174安打で最多安打、39盗塁で盗塁王を獲得します。
その後も2000年に盗塁王、2001年に最多安打、毎年のようにベストナインを獲得するなど球界を代表するショートとして活躍します。
2006年には史上34人目の2000本安打を達成します。また、投手で勝ち星をあげた選手で2000本安打を達成したのは「打撃の神様」といわれた川上哲治さん以来の2人目という快挙でした。
2007年は膝の手術をした影響もあり、前年の146試合から108試合と大きく出場を減らします。
2008年は更に出場を減らします。試合に出れないこともあって、琢朗さんは移籍するために自由契約を申し出ます。そして、カープへの移籍が決まりました。
移籍後は併用という形でしたが、1軍にフルで帯同するようになります。
2012年にはコーチ兼任選手となります。そして、この年限りで引退します。なんと最終戦はベイスターズ戦でした。琢朗さんは1番ショートでフル出場します。
コーチ
2013年からカープの1軍内野守備走塁コーチに就任します。2013、2014年は1塁ベースコーチも務めます。2015年は三塁ベースコーチを務めます。三塁ベースコーチは苦手だった印象がありますね。
2016年からは打撃コーチに就任し、チームの優勝に貢献します。工夫を凝らした練習を沢山していましたね。
2017年も打撃コーチを務め、連覇に貢献しました。しかし、家族が関東にいることもあり、2017シーズンをもってカープを退団します。
2018年、2019年とヤクルトの1軍打撃コーチを務めます。
2020年からは巨人の1軍野手総合コーチに就任し、2021年シーズンも引き続き務める予定です。
内容
移籍の真相
琢朗さんはどうしてカープに移籍したのでしょうか。その真相をお伝えします。
琢朗さんは、1番ショートとして1998年の優勝に貢献、2006年には2000本安打を達成するなどベイスターズのレジェンドです。
2000本達成したときは35歳とベテランでしたが「2000本を達成してからが勝負!」とまだまだ向上心もいっぱいでした。そして、2006年は146試合全試合に出場し、連続フルイニング出場を継続します。
しかし、翌年にはフルイニング出場もなくなり、108試合の出場に終わります。これには、球団が若手を積極起用するという方針があったそうです。2007年のオフ、当時の大矢新監督には「裏方に回ってもらうかもしれない」と言われました。球団の方針なので、大矢監督も従わざるおえなかったのでしょう。1番ショート石井琢朗を見出した大矢監督にとっては、非常に辛いことだったんだろうなと思います。また信頼を置いている大矢監督からの言葉は、琢朗さんにとっても非常につらいものでした。
2008年は更に出場を減らし、98試合の出場に終わります。そしてオフには「来年はもっと扱いが厳しくなる」「引退したらどうか」と大矢監督に言われてしまいます。シーズン中から、移籍した方がいいのではと琢朗さんは考えていたため、その意思を伝えます。
それが球団に伝わり、話し合いが行われました。球団の人からは「お前、FAなんかしても獲ってもらえなかったらみじめだぞ」とキツい言葉を言われます。その他にも、「惜しまれながら引退したらどうだ」「残ると言ったら大幅な減俸になる。それに1軍にいられるかはわからない」と言われたそうです。
また、当時ベイスターズがコーチ打診というニュースが出たのですが、そんな話は一切なかったそうです。
そして、琢朗さんは自由契約を選択し、カープへの入団へと至ります。
若手起用の方針や怪我があったにしても、今までチームを支えてくれた選手に対する扱いがひどいなと思います。この部分では私も憤りを感じました。今はどうなのかわかりませんが、選手へのリスペクトをしてほしいですね。
走攻守から走攻守「心」へ
野球では走攻守3拍子そろった選手がいいとされています。この3点で形成する三角形が、つねに正三角形のバランスで大きくなるように琢朗さんは意識していたそうです。
しかし、技術の伸びしろには限界があります。また野球は技術にフィジカルも関わるので、年齢と共に三角形は小さくなってしまいます。そして、日々の目標を失ってしまいます。
そんなときカープへ移籍し、さまざまな人にに出会い、経験を積むことで「人間的、精神的に成長する余地がまだあるのではないかと」いうことに琢朗さんは気づきます。それが「心の伸びしろ」です。
走攻守それぞれの伸びしろで形成する三角形に、心の伸びしろの1点を加えて四角形にします。そうすることで、図形の面積は倍以上に増えます。心の部分を意識することで、チームの中で違った役割を見つけられるのです。
この意識は仕事がマンネリ化している人に持ってもらいたいです。心の伸びしろは無限です。ひとはいつまでも成長できます。皆さんも「心の伸びしろ」を意識してみましょう。
山本有三さんの言葉
山本有三さんは、琢朗さんの出身地である栃木県の作家です。その山本有三さんの著書「路傍の石」のなかでこのような言葉が出てきます。
「たったひとりしかない自分を たった一度しかない 一生を本当に生かさなかったら 人間生まれてきたかいがないじゃないか」
琢朗さんは母親からこの言葉を教えてもらったそうです。琢朗さんはこの言葉を励みに生きてきました。大不振で軽い鬱状態になったときもこの言葉は支えになりました。
私は、本書の中でこの言葉が一番グッときました。日々つまらないように過ごすよりも、全力で今をそして人生を生きようという熱いメッセージ性があります。またこの中の、「たったひとりしかない自分」という言葉が特にいいですね。どんな人でも、たったひとりしかない大切な存在なんだから、自分を無下に扱ってはいけない。どんなに辛いことがあっても、自ら死を選ぶことはしてほしくない。たったひとりしかないあなたがいなくなったら、必ず悲しむ人がいるのだから。皆さんも自分を大切にしてください。そして、周りで苦しんでいる人がいるなら、この言葉を伝えてあげてください。
まとめ
石井琢朗さんの「心の伸びしろ-意識を変えれば自分が変わる-」を紹介しました。
今回紹介した以外にも以下のような内容があります。
・ミスをしたときは悩み抜け
・涙が止まらなかった大竹寛の好投
・コーチ石井琢朗の伝え方
・カープのベテランとベイスターズのベテラン
・現役引退を受け入れられた瞬間
・憑き物が落ちた2012年10月8日の一言
琢朗さんが大事にしている言葉はシンプルですが、どれも強さを感じました。特に山本有三さんの言葉は指針にしようと思います。また、心を伸ばしていくということは、今日から意識できると思うのでぜひ実践してみてください。琢朗さんの熱い言葉に心動かされること間違いなしですので、手に取ってみてください(琢朗さんのブログ記事も掲載されていて、当時を思い出せるのでオススメです。)
ありがとうございました!